カリスマセベ
「スペインの巨星」セベ・バレステロスが、病魔との闘いでは“ミラクル”を起こすことが出来ず、2011年5月7日がん性脳腫瘍の合併症のため亡くなりました。54歳とあまりにも早すぎる死に、世界中のゴルファーが衝撃を受けました。
80年代「最強」と言われたセベは、マスターズ2回(80、83年)、全英オープン3回(79、84、88年)、そして欧州ツアーで50回も優勝し、世界No.1も通算「61週」保持していました。全世界で91勝を挙げ、日本オープン選手権も1977年、78年と連覇し、日本でも通算6勝を挙げています。
酪農家の4男に生まれ、キャディのアルバイトをしていた兄の影響でゴルフに触れ、7歳のときにもらった3番アイアンのヘッドに枯れ枝を取り付けてクラブに見立て、小石を打つなどして遊ぶことにより「ゴルファー」としての基礎を自然と身に付けたとされています。8歳になると本物の3番アイアンを手に入れ自分の体の一部のように終始離さず、たった一個のボールが擦り切れて中のゴムが露出するまで打ち続けたというセベは、現在のクラブとは比較できないほど難しかったゴルフクラブで、12歳の頃にはスクラッチプレーヤーの腕前に達し、1974年わずか16歳でプロゴルファーとなったのです。スペインの海岸を錆びた3番アイアン片手に小石を打っていた少年が、セルヒオ・ガルシアをはじめ、現代30台から20台のヨーロッパ選手の憧れとなり、アーノルド・パーマーやジャック・ニクラウスがアメリカでそうであったように、セベはヨーロッパでゴルフというスポーツの地位を確立した、正真正銘の「カリスマ」でした。貧困家庭に生まれ育ったセベがお金持ちの家庭の娘に恋をし、彼女の父親に認めてもらうために必死にゴルフの腕を磨いて結婚にこぎつけたという昔話は、あまりにも有名です。「カリスマ」の歩みには、そんなドラマが付いて回るのでしょう。
私が始めてセベを見たのは「78・日本オープン」でした。ダイナミックなスイングから次元の違う弾道で2連覇を果たした同年代のプレー振りに圧倒され「同じステージで何時の日かセベと戦いたい、そのためにはまず海外に行かなくては」と決断したことを覚えています。強いエネルギーから発せられる「オーラ」を感じましたが、心・技・体が整い、パワーで押し進んでいくタイプでした。プレッシャーの中で、戸惑いながら勝負に挑んでいくのではなく、ウイニングロードに照準を合わせて「ゾーン」に入ることで「勝利」を勝ち取る集中力の強さが、セベ・バレステロスの勝ち方の特徴でした。
ひとたびゾーンに入るとエネルギーを燃え尽きることなくパワーに変換し、燃焼させ続けることで、バーディを重ね、トータル72ホールを突き進む「アグレッシブ」なプレーぶりでした。当時の若い選手は、自分を抑えるという自己鍛錬に欠け、初日、2日目までの空回りで終ってしまうことが多く、セベのように自分をコントロールして、爆発力以上の結果を出すヤングプレーヤーは皆無でした。
セベのパッティングのうまさは特筆もので、ゆったりとしたテークバックは、無理に持ち上げるでもなく、インパクトからは低く地面に這わせて、ボールを長くつかまえていました。ここしかないという、理想的なところにスムースに上がり、後はパターと腕の重さに任せているような素晴らしいストロークでした。難しいパットを決めると、大きなガッツポーズでさらに自身を鼓舞し、その戦う姿でもファンを魅了したプレーヤーでした。
アプローチやバンカーショットもタッチが抜群でしたが、トラブルショットでピンチをチャンスに変える想像力と感性は、誰も超えることはできない技術で天才肌でした。もっともドライバーが苦手で、誰よりも大きく曲げたため、トラブルショットが多かったのも事実でした。「もっとフェアウェイが狭ければいいのに。そうすれば、みんなラフからプレーしなければいけなくなる。俺みたいに」と、戯けたコメントも残しています。ピンが見えない最悪の状況から、何がなんでも、ピンしか狙って行かない「七色のアイアンショット」は、世界中のゴルフファンを楽しませてくれました。
メジャー初優勝を遂げた79年の「全英オープン」(ロイヤルリザム&セントアンズ)では伝説の『駐車場ショット』を披露しています。16番ホールでティショットを大きく右に曲げ、臨時駐車場の車の下にボールを打ち込んでしまったセベは、ルール上の救済により車を移動しスイングが可能な状態にはなったのですが、優勝争いからは脱落したと誰もが思ったものです。ところがこの芝生の生えていない土の上から、グリーンすら見えない状況にもかかわらず4mにボールを乗せ、まさかのバーディを奪い、自身初めてのメジャータイトル獲得を手繰り寄せたのです。このスーパーショットは「全英オープン」の語り草となっています。またその翌年、セベは「マスターズ」で優勝しましたが、やはり、最終日17番ホールのティショットを、今度は左に曲げ、隣の7番ホールに打ち込んでしまいます。ピンチのはずのこのシーンでも、セベはバーディをもぎとってしまったのです。
腰と背中を痛めた96年以降は優勝できずにいましたが、パーシモンからメタルそしてチタンにドライバーヘッドが移行した時期に、対応できなかったことも要因といわれています。チャンピオンズツアーもわずか1戦のみに参戦し、2007年春に50歳で現役引退を表明。離婚後付き合っていた彼女を交通事故で亡くした直後のことでした。若かりし日のバレステロスは、まさにスペインの闘牛士を思わせる戦いぶりでした。彼のゴルフを形容する言葉は「アグレッシブ」の一言でしたが、セベの代理人ロッキー・ハンブリック氏は「あの事故以来、セベから闘志が消えた」と語っています。
1997年の「ライダーカップ」ではキャプテンとして母国のホセ・マリア・オラサバル、ミゲル・アンヘル・ヒメネスらを擁し、欧州チームを勝利に導いています。脳腫瘍で倒れる数カ月前「ライダーカップ」について問われたセベが、メディアに向かって「今年はアメリカに勝ってほしい。いつも我々欧州が圧勝しちゃって、みんな、つまらないって感じてるよ」と語っています。 かつて、セベはライダーカップで欧州チームを勝利に導く立役者でした。奇跡のような「カリスマ」のリカバリーショットに欧州ファンは大声援を送りました。 不調に陥り、セベが出場しなくなってからも勝率は圧倒的に欧州優勢の状況を憂い、欧米両チームが、最高のプレーでぶつかり合う熱いチーム戦が、ゴルフのもうひとつの魅力だと知ってのコメントだったのでしょう。
セベが「世界のビックイベントにしなくては」と提唱し実現したのが、アジア・欧州対抗戦「ロイヤルトロフィー」です。2回大会までは発案者のセベが、キャプテンとしてバンコクに来ていました。3回大会、選手選考直前に倒れ、同郷のオラザバルにキャプテンを託し、4・5回大会は、コリン・モントゴメリーをキャプテンに指名していました。毎回、最終日の最終組にまでもつれ込む展開で、セベも満足して観戦していたことでしょう。回復して、欧州チームキャプテンとして、タイに戻ってくることを願っていましたが、残念ながらその願いは叶いませんでした。
メジャー初戦「マスターズ」の開幕週の火曜日に、恒例の「チャンピオンズディナー」がオーガスタナショナルGCのクラブハウスで行われました。過去のマスターズチャンピオンだけが、グリーンジャケットをまとって参加する大会前恒例の夕食会ですが、前年度優勝者がメニューを決めることでも有名で、各選手の好物や、母国の郷土料理などが選ばれるのが慣例となっていました。今年は、昨年優勝のP・ミケルソンの発案でガスパチョに始まりビネグレットソースのグリーンサラダ、シーフードパエリア、マンチェゴチーズとスモークパプリカを添えたテンダーロインステーキ、スペイン風アップルパイといったスペイン料理でした。これはP・ミケルソンが、脳腫瘍と闘い戦列を離れているセベを激励する意味で用意したとされています。P・ミケルソンは17歳の時に初めて米国PGAツアーの試合に出場した際、セベと練習ラウンドを共にし、興奮したことを思い出しながら「彼は僕にとって最高の紳士だ、マスターズチャンピオンみんながセベのことを考えている。彼がここにいてくれたら…と皆が思っていることを彼に知ってもらいたい。だから今夜はスペイン料理を選んだんだ」と語っていました。セベは大会3日目、に54歳の誕生日を迎えましたが、来年の「チャンピオンズディナー」に参加することは出来なくなりました。
「マスターズ」で27位に入り、日本人初のベストアマを獲得した松山英樹に、マスターズの活躍ぶりを称え「感動した」という内容の直筆サイン入りの手紙を送ったことが明らかになりました。死の直前までゴルフを愛したセベに、ご冥福を祈って「Gracias, Seve!」


