生涯現役のこだわり
「ホンダLPGAタイランド」が2月16日から「サイアムCC・オールドコース」で開催されることが決定しましたが、今年は宮里美香に期待して応援したいですね。2004年に「日本女子アマチュア選手権」のタイトルを日本最年少記録で勝った時、彼女は、まだ14歳の中学生でした。その成績が評価され「特例」で高校生以上の代表選手が競う「世界アマ」に出場しましたが、諸見里しのぶ、原江里菜らというチームメイトと共に、団体で4位に入っています。
さらに'06年の「世界ジュニア」では、現在の世界ランク1位「女王」ヤニ・ツェンに競り勝ち、優勝を果たしています。世界の強豪と互角に戦える自分に気がつき、美香は「それなら、世界で戦いたい」という気持ちを強く持ち「JLPGA」ではなく「LPGA」挑戦を決意したのでしょう。
高校卒業直後の08年6月に渡米し、年末行われた「クオリファイング・トーナメント」で12位に入り、2009年のシードを獲得し「LPGA」参戦を見事に決めたのです。テニスの錦織が「IMGニック・ボロテリー・テニスアカデミー」に入門したのと同様、フロリダの「IMGアカデミー」で「クオリファイング・トーナメント」のための準備をしています。「IMGゴルフアカデミー」には、技術、メンタル、フィジカルの専任コーチがいます。プロゴルファーとして必要な総合的な指導を受けられますが、その成果が年々成績に顕れてきています。
美香は、2011年米ツアー4大メジャー大会で獲得した賞金を、東日本大震災の義援金として全額寄付することを表明していました。その成績は「クラフト・ナビスコ選手権」7位タイ、「全米女子プロ」8位タイ、「全米女子オープン」5位、「全英女子オープン」14位タイと素晴らしいものでした。獲得賞金総額は26万1171ドル。1ドル80円で換算すると約2090万円となりました。東日本大震災に対しては、著名なスポーツ選手から高額の義援金が相次ぎましたが、美香は日本のアマチュアNo.1から、スポンサーなしでいきなり米国に渡り、19歳でプロデビューして、今年4年目のシーズンを迎えた新鋭です。この若さでこれほど大々的な支援活動をしている選手は、石川遼と宮里美香だけではないでしょうか。
美香が昨年の4大メジャーのすべての大会で「日本人トップ」の成績を収めていることが、今年の活躍を予想する理由です。一昨年は4大メジャーのうち予選を突破したのが「クラフト・ナビスコ選手権」と「全米女子プロ」だけで、成績も40位タイと13位でした。4大メジャーで「7位タイ、8位タイ、5位、14位タイ」というのが、どれくらい優れているかは、ほかの日本人選手の成績と比較してみるとよく分かります。メジャー4試合すべてで予選を通過した選手は美香しかいないのです。宮里藍でさえ2試合で予選落ち。3試合で予選を通った上田桃子は「全英女子オープン」の22位タイが最高位でした。
4大メジャー大会ですべて14位以上というのは、昔のことですが1987年に岡本綾子が全4戦トップ5入り(5位タイ、3位タイ、2位、2位タイ)を達成して以来の好成績でした。この年の岡本は「LPGA賞金女王」に輝き「年間最優秀選手」にも選ばれています。ソフトボールから転身し、ゴルフを始めた年齢自体が遅かったとはいえ、岡本はその時36歳でしたが、宮里美香は今年まだ22歳です。
美香の2010年のフェアウェイキープ率は72.7%で、米ツアー出場選手の中で20位だったのに対し、2011年は79.9%で7位と大きくランクアップしています。パーオン率も33位から23位とレベルアップし、ショットの正確性に磨きがかかり、成績が上がったのが分かります。しかし美香自身はメンタル面の成長を挙げています。メンタルコーチと電話で連絡を取りながら、大会中も1日ごとに状況に応じた助言を受けていたと明かしています。トラブルに見舞われると、よく似た状況から、うまく乗り越えた選手の映像を動画サイトで見るなど、様々なメンタルコントロールを試みて、平常心でのラウンドを常に心がけたということです。今年も初戦の前にフロリダの「IMGゴルフアカデミー」で、2012年のシーズンに備えていますが、出発前に行われた「マンシングウェア」とのウエア契約発表会では「マンシングウェアは、11歳で人生初の優勝を飾った沖縄県民ジュニアゴルフ選手権で身につけていて、縁があるのかなと思う。世界ランク、賞金ランク、全部1位になりたい!」と今年の活躍を誓っていました。
「マンシングウェア」といえば杉原輝雄プロの姿が思い浮かびます。50年以上の長きに渡り現役を続行してきた存在感の大きさから「日本プロゴルフ界のドン」と後輩プロゴルファーや、多くのファンに親しまれる存在でしたが1998年に発病した前立腺がんとの闘病の末、昨年末お亡くなりになりました。1957年のプロ入り後、1962年の日本オープン選手権を皮切りに、2008年までの優勝回数は尾崎将司プロ、青木功プロに次ぐ歴代3位の63勝(うち海外1勝、シニアツアー8勝)を挙げています。
ゴルフジャーナリストの三田村昌鳳氏のインタビュー記事によると「僕自身はプレッシャーに強いと思わない。どうしたらいいのかも解らない。そのとき思い切ったことをやれたら、それでいいと思う。やれることだけをやればいいんです。と思っても萎縮するんだけど。それまで、どれだけやってきたか。プレッシャーがかかるのは、ひょっとしたらいい結果がでるかも知れないからですやろ。上手くいけば優勝とか、出したことのないスコアとか。プレッシャーをはねのけられる技術なんて、並大抵じゃ身につかない。だけど、はねのけるために技を磨く。結果は望むけれど、あまり結果を意識しないほうがいいね。意識すると、たいてい悪い結果になるもんや。もちろん、相手がうまくいきそうだという時には、神頼みでも失敗してくれたらと、そういう気分もありますよ。すごく時間が短く感じるんですよ、そういう状況下では。勇気?思いきりです最後は」と、迷いの中にある石川に聞かせたいですが、杉原プロ自身が語る、勝負へのこだわりが詰まっています。
杉原プロの練習量の多さはゴルフ界では有名で、その練習熱心な姿を見て育ち活躍した関西出身のプロゴルファーは数知れません。また162cmとプロスポーツ選手としては小柄な体格をカバーするために、徐々に長くしたドライバーのシャフトは47インチを越え、長尺ドライバーを使いこなす先駆者でもありました。ドライバーの飛距離ではA・O・Nに適わなくてもフェアウェイウッドを握り、遠くから先に打つセカンドでピンそばに寄せ、プレッシャーをかけるプレースタイルでした。飽くなき勝利への執念から「マムシの杉原」と恐れられ、衰えた筋力の強化のため、1996年5月から「加圧式筋力トレーニング」を開始していました。
杉原プロが前立腺がんを宣告されたのは1998年12月のことでした。細胞を取り出して行う生検で確認されたのですが「がんが見つかったのは、たまたま親しい友人が、私が前立腺肥大に悩んでいるのを知って、千里のTクリニックを紹介してくれたからです。検査を受けたところ、前立腺がんの疑いがあるということで、細胞をとって調べることになり、その結果、やはり前立腺がんだということになったわけです。驚いたというよりは、やっぱりそうかという感じでしたね」と回想されていました。杉原プロ自身「がんに違いない」と感じていたものの、もし前立腺がんと宣告されれば「生涯現役」の夢が潰れてしまうことになり、検査結果を聞くのに時間が必要だったとも告白されています。
しかし、がんが比較的初期で、質の悪いタイプのものでもなかったので、医師は外科手術によって患部を摘出する方法と、ホルモン療法で患部の拡大を抑制していく方法があることを詳しく説明したといいます。ホルモン療法というのは、がん細胞増殖の原因となる男性ホルモンを、薬剤によって抑える方法ですが、現役を続けることしか頭にない杉原プロにとって、選択肢はこれしかありませんでした。
「最初から手術を受ける気はなかったですね。手術すれば完治する可能性が高いと言われても、クラブが振れるまでに3カ月かかるということでしたから、それはできんと思いました。まだ50歳くらいだったら、手術する気になったかもしれませんけど、60になっていましたからね。そんな悠長なことしておられんという気持ちでした」と手術に踏み切らなかった理由を明かしています。前立腺がんとトーナメントプロを両立させるのは「至難の技」だったのではないでしょうか。賞金を稼ぐというトーナメントプロにとって男性ホルモンは必要不可欠な存在です。「賞金稼ぎ」の「狩猟本能」を支えるのは、男性ホルモンが作り出す「闘争心」であり、その並外れたパワーの源泉にあるのも男性ホルモンです。しかし、前立腺がんにとって、男性ホルモンはがん細胞を増殖させるため、絶対に抑え込まなければならない「天敵」でした。
抗男性ホルモン剤を投与することは、薬剤によって「去勢状態」の男性を作り出すことになります。以前は、前立腺がんの手術といえば、睾丸の摘出手術がメインだったことからも分かるように、前立腺がんは「去勢状態」にしなくては進行が早まります。しかしこれでは、いくら筋力トレーニングをやっても、パワーが落ちてゆくことになります。杉原プロは抗男性ホルモン剤の影響で、ドライバーの飛距離が20ヤード近く落ちてしまったそうです。そこで杉原プロは抗男性ホルモン剤をうつことをやめて、以前から取り組んでいた「加圧式筋力トレーニング」だけに切り替えたのです。このトレーニングは、腕や脚など鍛える部分を帯のようなもので縛り、酸素の供給を制限した状況のもとで行う過酷な筋力増強法として知られていますが、杉原プロは35歳の筋肉といわれるまでに筋力が甦ったといいます。「どうもパワーが出ませんでね。ボールは飛ばないし、パットも入らない。せっかく260ヤードになったドライバーの飛距離が240に落ちてしまった。女性ホルモン(抗男性ホルモン)の注射は、男のパワーを損なうといわれていますけど、本当でした。夜のほうも駄目になるし、若い女性を見ても何とも思わんようになった。まあ、これも不安だし、不満だし」と、お得意の冗談交じりにインタビューに答えています。
主治医の猛反対を押し切り「生涯現役」にこだわった杉原プロは、がんの抑止に効果的な食品等を習慣として積極的にとり入れ、加圧式の筋力トレーニングでパワーを維持しながらツアーに出場し続けたのです。2001年の静岡オープン以来「レギュラーツアー」の予選通過はありませんでしたが、2006年の「つるやオープン」で、58試合ぶりに予選通過を果たしています。68歳10ヶ月での予選通過は日本ツアー最年長記録であると同時に、PGAツアーのサム・スニードが達成した67歳2ヶ月をも上回る大記録でした。永久契約を結んでいた「マンシングウェア」のデサント社の担当者が東京から足を運び、遺族に手渡された「来季契約書」が、翌日の葬儀の際に棺に入れられたという粋な計らいは、杉原ファンに大きな感動を与えました。
「伝説的なエピソード」としては、「誰もいなくなった練習場の200ヤード先にキャディを座らせ、ドライバーやフェアウェイウッドで打ったボールを、キャディは座ったまま手を差し伸べれば拾えた」というのがあります。それだけ杉原プロのボールコントロールは正確だったということです。中部銀次郎さんは生涯アマチュアを貫きながら、プロトーナメントで優勝した実績を持つという、これまた伝説的な人物ですが「なぜプロにならなかったのか」との質問に、杉原プロの練習を見て「プロの生き方にショックを受けたから」と答えたことが残されています。真夏の最も暑い時間帯に、ゴルフ場で最も暑く、風も通らないホールへわざわざ行って練習をこなし、寒い冬も同じで、いつも最悪の条件で練習をする杉原プロの真摯な姿勢に、中部銀次郎さんは驚かされたのでしょう。
杉原プロの68歳の名言です「練習の虫かって?そんなこと思ってないよ。むしろ足らなかったと思っています。だって朝9時前後から昼までやったって、300球とか500球がせいぜいでしょう。500球なんて急がなきゃできない。急いだら練習になりません。最高でも700球ぐらいしか打ったことないですわ。これじゃ足りん。無我夢中で上手くなりたいと思っていただけで、能率のいい練習なんて解らんかった。ただ先輩やグループの中で見よう、見まねでやっていただけで、そんなやり方じゃあね。まあ、時間があったら練習するというのはプロなら当然ですやろ。1日400〜500球じゃ話にならん。たまたま勝負運がよくて、それで勝たせてもらったと思っています」というのがありますが「勝たせてもらった」という部分がいかにも杉原プロらしいですね。
初日が雨によるコースコンディション不良となった「2010・つるやオープン」で、中止の発表まで待たされたギャラリーのために、ずぶ濡れになりながら20分間練習場で絶妙なショットを披露し、中止が決まるとサイン会を開催したのは72歳の杉原プロでした。「生涯現役」にこだわり、ファンを愛し、ゴルフを愛した杉原プロ。「人間、夢と欲があるから努力するのとちゃうか」という「名言」が想い出されます。
合掌


